三斗小屋宿跡ってこんなところ三斗小屋温泉より西へ約3km、板室本村から約12kmの地点に会津中街道の宿場がありました。元禄8(1695)年、鬼怒川廻りの会津西街道が天災で遮断されたため、会津藩が参勤交代や廻米のため、国境の大峠の前後に三斗小屋宿と野際新田宿を設けました。会津藩の記録によると、三斗小屋宿は屋敷割50戸で、元禄9年には人家はなかったとあります。
1850年頃より修験道の白湯山(はくゆさん・はくとうさん)信仰が盛んになり門前町として栄え、安政3(1856)年4月8日には参詣者が1日に1000人余に達したと言われ、今なお寄進された常夜灯や石仏などが残っています。(三斗小屋誌)
戊辰戦争では、旧幕府軍の攻防の要衝として1000人余の兵の駐屯地となりました。慶応4(1868)年8月23日午前8時頃、白河からの官軍が雨の中を突入し、その争いは午後6時頃まで続いたということです。旧幕府軍は死者16名、砲3門を残し会津方面に敗走しました。
一時は栄えた宿場も戊辰戦争の戦火で全焼し、復興後も時代の変化により徐々に衰退していきました。明治中期に鉱山が開かれ、わずかに賑わいを見せましたが、明治41(1908)年5月に大火により再度全焼(14戸)し、昭和32(1957)年12月8日に最後の1戸が転出してからは無人の地となっています。
那須塩原市板室地内